胸のつっかえ棒

今年の年賀状には「疫病退散」「無病息災」を願う思いが

新型コロナの緊急事態宣言が8日に発せられて以来、新規感染者数の勢いはいっこうに衰えそうもありません。国内の感染が確認されてからちょうど1年、いつもの華やいだ年明けとは違った思い、複雑な心境で新年を迎えられた方も多いのではないでしょうか。新年に頂いた年賀状は、どれもコロナを憂(うれ)い、一刻も早い終息を祈る文章がつづられていました。

お正月と言えばお節料理。最近は数カ月も前からお節のネット販売などが盛んで、種類も豊富。お正月だけは、と丹念に手作りしていた年配者も、だんだん手ごろな市販品を買うことが多くなっているようです。もともとお節には、一つひとつの料理に年の始めにちなむ縁起(えんぎ)があり、それをもてなしつつ味わうのが習わしでもあります。でもそれはもはや昔のお話しかもしれません。

グループホームなの花でおすそ分けのお節

私も毎年少しばかりですが、わざわざ手をかけてお節料理を作ります。なの花のグループホームでも一部の方におすそ分けをしました。これはもう年の瀬の儀式というか、自分自身に課した義務のようなもの、あるいは老齢化を推し量るバロメーターのようなものと言っていいでしょう。

実は、料理にはたくさんの段取り(プロセス)があり、材料の選択、調理、盛り付けから振舞い方まで、本来はとても計画的、戦略的で、大変に頭を使う作業なのです。(家庭ではそこまで気を使いませんが)だから私にとっては大事な恒例行事になっています。
せっかく作ったお節も、子どもたちはあまり喜びません。近年は昔ながらのお節は好まれない傾向にあるようです。それに、ふだんからおいしい料理を食べ慣れているでしょうから。

さて、新年をうたった大変有名な高浜虚子の句で「去年(こぞ)今年(ことし)貫く棒の如きもの」というのをご存じの方も多いでしょう。本来の意味はともかく、私には例の「新型コロナ」というつっかえ棒が、まさに去年から今年にかけてずっと胸につかえている思いがして、この「棒」という句を連想してしまいました。

昨年12月開催の千葉西地域包括多職種の会のもよう(左上2番目が筆者、画像は加工されています)

年明けから予定されていた様々な会議やイベントは軒並み中止、あるいはリモートに切り替えられています。
このような形で、昨年から行われたZOOM会議は数え切れませんが、私のように横着な人間には部屋に居ながらにして会合に参加でき、時間の節約や、会場に参加するよりもかえって意見が述べやすかったり、見たい人の顔がはっきり見えたりと、今のところ利点の方がまさっています。
その点だけでも、コロナ禍は人類のコミュニケーションの在り方を大きく変えた歴史的転換点だったと、後の人々に言われるかもしれませんね。

これから10年経った時、20年経った時…振り返ってこの2020年から始まったコロナ禍のことがどのような意味をその後の地球社会にもたらすのか、凡人には予測もつきません。先ほどの虚子の句「去年今年」は、昨日と今日という時間軸にも通じ、それを1本の「棒」のようなものと表現したので、当時(1950年12月)の人びとにはまさに「やぶから棒」のような驚きで受け止められたようです。この句は、鎌倉駅構内に掲げられていたのを、たまたま川端康成が目にし、感嘆して随筆に書いたことから一躍有名になった、と言われています。
新年という時節なので、普段は気にも留めないこの時間ということにあらためて思いを寄せてみました。

「現在」は未来と過去の間にあることを象徴する砂時計

実は私たちの身の回りに、過去・現在・未来という時間の流れを象徴的に表して見せる道具があります。砂時計です。それは、現在というものが未来と過去の間にあることを象徴しています。
現在(くびれた部分)を絶え間なく流れ続ける未来(上)から過去(下)へと落ちてゆく時の流れ。その瞬間、瞬間の「現在」の中に過去と未来のすべてが含まれています。人はそのくびれた部分の流れを見つめて何を思うでしょう。
時間の長さには、その人の年齢や人生の充実感によって主観的な変化があるといわれます。一般に年をとるほど時間の流れが早く感じるようです。
この砂時計を見て、まだこんなにも先が長いのかとため息が出る人もいるでしょうし、逆に人生の残り少なさを見ているようで、わびしさを感じる人もいるかもしれませんね。私は後者に近いかな。
大切なことは、昨日の自分と比べて、今日の自分はどれだけ進んだか(成長したか)。去年の自分と比べて、今年の自分はどうか。「自分と他人とを比べるのではなく、自分の過去と現在と未来の前進を比べることである。歴史とは、新しい一歩一歩の積み重ねである。遙かな未来も『今』という一瞬から始まる」と、ある詩人は世界の青年達に呼び掛けています。
ともあれこの1年も一日、一日をいかに充実させて悔いなく生きるかが勝負ですね。
まさに「貫く棒」のように何事にもぶれずに、恐れず、前を向いて。

ところで、前回のブログ(不動の心1月2日)ではカエルとへびのお話しが語られていました。爬(は)虫類などがあまりお好きでない方には申し訳ないのですが、私も今回そのような類のエピソードを一つ紹介してみたくなりました。

地上1mの枝に何やら不思議な光景が

実は昨年暮れの押し迫ったある日、家の前に生えているバラの枝に何気なく目が止まりました。何か異様なものが見えたのです。よく見ると枝に突き刺さったトカゲです。しばらく眺めていて不思議に思いました。どうすればこんな姿になるのかと。しばらく考えましたが謎は解けず、とりあえずめずらしいので写真を撮っておきました。それからずっとこのことは忘れていました。

ある時ふと新聞の記事を目にした時です。「そうだったのか!」 謎が解けました。これは「モズのはやにえ(早贄)」という習性だったのです。ネットで調べると簡単に検索できました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%BA

なんの見せしめ? トカゲちゃんどうしちゃったの??

どうやらこれは知る人ぞ知る、よく知られた自然の風物でもあったようです。モズ(百舌鳥)は動物食の鳥類で、気温が低く餌の少ない時期に、とらえた獲物を縄張り内の枝先などに突き刺して備蓄しておくのだそうです。この1月2月の最も寒い時期はモズの繁殖期でもあり、その頃にこの保存食を盛んに消費するとのこと。
餌を自分のなわばりに貯える「貯食行動」というのは、さまざまな動物で見られるようです。季節による餌の不足を補うための行動であり、生きるための自然の進化というのが定説です。ただし特にオスのモズにおいては、メスを獲得するために「歌の質を高める栄養食」としても機能していることが最近の研究で分かっています。

新年早々、モズのおかげで胸のつっかえ棒がはずれました。

 

 

 


 

NPO法人なの花会 相談支援員
精神保健福祉士 加藤峰生

ページトップへ戻る