双極性障害と私②

ペンネームSora

海の向こうには富士山が見える、はず (北条海岸20/04)

(前回①からの続きです)
専門学校へ進学、そして就労Bへ
  専門学校では、介護福祉士を取得できる学科の夜間部へ転科した。1年次の春、学校にきていた求人に応募し、高齢者デイサービスで介護の仕事を始めた。初めての一人暮らしだったが、勉強も仕事もそれなりに楽しかった。しかし、毎朝7時に家を出て職場に行き、終わると夕方からは学校の授業を受け、夜10時過ぎに帰宅…そんな生活が長く続くはずもなかった。不眠や体重へのこだわりから食事が取れなくなり、だんだんと体調を崩し、ついには職場で倒れて1回目の精神科入院を経験することとなった。
「食べたくない」「リストカットしたい」「死にたい」…そんなみじめな思いを抱えたまま約2ヶ月間入院、その後も同じ精神科へ2回の入退院を繰り返した。

「あなたの一部が病気」
その一方で、専門学校の2年生となった時、人生で初めて恩師といえる先生と出会う事ができた。自身の問題や体調の変化があるごとに何度も面談してくださり、良いことは褒め、悪いことはきちんと叱ってくださる先生だった。先生に言われた中で1番印象に残っているのは、「『病気のあなた』じゃなくて『あなたの一部が病気』なのよ」という事だ。
「病気の私」。私のすべてが病気なのではなくて、私の一部が病気で私の中には他に健康な部分もある。これは私にとって大きな気付きだった。支えてくださる先生がいるということは、大きな励みになった。

それでも、「死にたい」という気持ちがなくなることはなかった。体調や気分の波はおさまらず、寝込んでしまう日も多くなった。衝動的なリストカット、摂食障害の症状にも悩まされ続けた。
ある年の夏、毎日死ぬことしか考えられなくなり、「このまま1人暮らしを続けていたらほんとに死んでしまう」と思い、入院先で知り合った友達のアパートへ転がり込んだ。しかし死にたい気持ちが治まる事はなかった。そしてとうとうその年の12月、多量服薬で自殺を図った。友達が救急車を呼んでくれて、目が覚めた時にはICUにいた。3週間ほど、生死の堺をさまよっていたようだ。意識が戻った時、耳の近くでたくさんの機械音がしていた。全身を器械に繋がれた状態だった。全身に強い痛みがあり、力も入らず自力で寝返りがうてなかった。気管切開をしていたので声も出なかった。もちろん口から食事をとる事もできなかった。

私は、死ぬのを諦めた

メロンソーダと私の本…ある日ある時

1ヶ月ほどしてICUから出ると、実家のある館山の病院へ移った。そこでは身体のリハビリに専念しながら2ヶ月ほど療養し3月に退院した。その時には声も出て、普通の食事ができるようになっていたが、身体の痛みはまだ残っていた。退院後しばらくは外来でリハビリを続けた。外来リハビリが終了してからは、足に痛みが残っていた事もあり、家にこもっていた。しかし、もともと折り合いが悪かった父とある日大きく揉めて日中家にいるのが辛くなり、就労継続B型作業所のなの花会へ通い始めた。

なの花会での仕事にもなれ、次へのステップとして翌年の5月から、短時間で週2回のコンビニのアルバイトも始めた。しばらくは頑張ったが仕事のペースについていけず、年末に退職した。そのころ、専門学校の担任の先生が、地元で実習ができる施設を探してくださったが受け入れ先が見つからず、翌年の3月末で満期退学となった。

ピアサポーターに
 以前から興味があった、精神疾患の人を自分の経験を活かしてサポートするピアスタッフという働き方があるのを知った。さっそく横浜にある民間のピアサポーター研修を受け、終了後はなの花会でスタッフとして雇用されることになった。さらに翌年、千葉県が主催する精神障害者ピアサポート専門員の養成研修を受け、それを機に転職した。しかし、なの花会の時と比べ、職場環境や仕事上の負荷が高かったこともあり、寛解していた双極性障害が再発し、希死念慮やうつがひどくなり、やむなく退職した。
楽しい事もあったがきつかった事の方が多く、フラッシュバックするので転職先での事はこの場では割愛する。

館山へ戻った私は、とりあえずなの花会へ顔をだした。前職で大きな挫折と喪失体験をした私は、とにかく館山での居場所が欲しかったのだ。なの花会で当事者として再利用するにあたっては、「よそで失敗して、スタッフとして働いていた以前の職場にまた利用者として戻ってきてしまった」ということに、しばらくは葛藤があった。
では、なぜなの花会へ戻ったかといえば、成功体験をつかめたり、転職先で働いていた間も相談にのってくれたスタッフさんがいたり、新しい事業所へ行くよりは少なからず安心できる要素があったからだ。
また、現在は活動していないのだが地域にピア・サポートグループもあり、その活動に参加したり、大きなイベントをやるというので途中からではあったが実行委員として活動もした。そうしてゆっくりと時間がたつにつれ、葛藤も少なくなっていき、また薬を変えたことで状態も少しずつ安定してきた。

いつでも行きたいところ IZU TEDDY BEAR MUSEUM

一歩一歩前進
今は地域の活動支援センターにも登録して、月1回ほどのペースで相談員の方に面談していただき、困り事や日常のことなども話している。なの花会のスタッフの方にも困りごとがあれば相談している。先日は久しぶりに職場の責任者とゆっくり面談もでき、将来の事も前向きに話しをすることができた。

いろいろな方に助けていただきながら、一歩一歩前進していきたいと思う。そして、自分一人でできる対処の方法も増やしていきたい。将来はまたピアスタッフとして働き、その先として、精神保健福祉士の資格にも挑戦してみたいと思う。

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