双極性障害と私①

ペンネームSora

館山北条海岸…遠くに見えるのは外国航路の貨物船、かな?(20/04)

まずは自己紹介

私は双極性障害の当事者で、なの花会の利用者として仕事をしている。施設長より勧められてこの文章を書いている。ここでは主に革細工の作成をするフロアにおり、革細工のほかにスタッフから指示された仕事をその都度している。
私の一番の趣味は読書だ。好きな作家は辻村深月、伊坂幸太郎、宮部みゆき、村山早紀、望月麻衣、土橋章宏、蒼月海里、篠原悠希・・・まだまだ好きな作家はいるが、挙げだしたらきりがないのでこの辺にしておく。
珈琲や紅茶を飲みながら読書をしている時間は幸せ。本屋さんと図書館が大好きである。カフェでの読書も好きだ。ストレスが放流されていく気がする。
ブックカバーを集めるのも好き。最近あんまりやれていないが、大人の塗り絵、スクラッチアートやクロスステッチなども好きだ。
テディベアが好き。写真を撮影するのも好き。風景の写真を撮るのも好きだ。今はスマホで撮っているが、いつか一眼レフの勉強などもしてみたい。
さて、そろそろ本題に移るとしよう。

出生から高校卒業まで
 私は千葉県館山市で生まれ育った。両親と弟の4人家族である。高校までは館山市で過ごした。小学校・中学校時代はいじめられっ子で友達がいなかった。初めて友達ができたのは高校に入学してからである。だから高校生になった時、友達ができたときは目の前がパッと明るくなった。真っ暗だった毎日に色がついた。今でも友達関係が続いているのは高校時代の友達である。
高校では演劇部に入った。大変だったが、それ以上に楽しかった。そんな中でも病魔の影は刻一刻と忍び寄っていた。発病は高校2年生の秋である。鬱になって、段々ご飯が食べられなくなっていった。リストカットも始めてしまった。鬱と摂食障害の発症である。原因は部活内での友達との些細ないざこざだった。
高校2年秋の修学旅行、京都の旅館でひとしきりおしゃべりして友達は寝てしまい、眠れない私は「一体いつになったら死ねるのだろう」と、悶々と考え続けていたのを今でも鮮明に覚えている。

スタバでの読書は私の楽しみのひとつ

そのころからは、毎日の色が少しずつ黒ずんでいった。でも、友達は身近にいてくれて、友達に支えられ卒業できた面は大きい。毎日部室で友達とワイワイと話しながら、お昼休みを過ごしていたのが昨日の事のように思い出される。高校時代は、卒業して環境が変われば鬱や摂食障害も治ると思っていた。
高校3年に進級。進路選択の時期になった。環境を変えたほうがいいと思い、同級生が同じ学科にいない4年制大学への進学を決めた。福祉の勉強をするためだ。

大学時代のこと
 そして、私は高校を卒業し大学へ進学した。はじめは昼間部へ進学し大学の寮に入っていたが、構内でも寮でも

人間関係が上手くいかず、鬱状態は悪化した。1年時が終わる時、寮を出て少し遠かったが実家からの通学に切り替えた。そして2年の後期からは夜間部へ移った。
翌年春、初めてA精神科を受診した。特に診断名は言われなかったが、効うつ薬や睡眠薬を服用することで、目にみえて体調は回復してきた。しかし今振り返ると、そのころの体調の良さは軽躁状態だったのだと思う。
通院を初めて3ヶ月ほどたった夏、服薬をして調子が良くなった事もあり、私は自分で判断し通院をやめ、勝手に断薬した。夏休みを利用しホームヘルパー2級の資格を取得すると、実習させてもらった施設でそのまま短時間だが仕事を始めた。昼間仕事をしながら夜は大学で授業を受け、夜遅く帰宅するという生活が始まった。初めてのアルバイトは介護職だった。
しかし、断薬したままで調子の良い(今振り返れば軽躁)状態は長くは続かなかった。秋頃には再び鬱状態になり、初診とは別のB精神科を受診した。そこでは「うつ病」と診断された。しばらく通ったが、高校時代からの友人に「いい先生がいる」と言われたので、Cクリニックに転院した。そこでは、家族関係や成育歴についてなど、たくさんのことを訊かれ、それに応じてすべてを話した。今までにない家族関係に踏み込んだ治療だった。医師との会話の中で、私が育った家庭のおかしさがだんだんと浮き彫りになってきたのだ。
そしてOD(overdose:薬の過剰摂取)が始まった。

クリームの上にテディベアが可愛すぎる(Izu Teddy Bear Museum)

仕事をしながらも4年間なんとか大学に通い続け、社会福祉主事と社会福祉士の受験資格を取得することができた。大学を卒業する頃には、維持薬だけで生活できるぐらい状態もおちついていた。

専門学校への進学

大学卒業後は、自分の経験をいかして精神科の作業療法士になりたくて、大学時代遊ばずにためたお金を使い、資格のとれる専門学校の夜間部へ進学した。しかし、勉強についていくのは大変だった。精神的にも悪化していった。クラスメイトが仕事をしていたこともあり、発達障害のある中学生徒の補助をする仕事を秋頃から始めた。
仕事自体は楽しかったが、学校を休む日もでてきた。そしてどんどん授業が難しくなるにつれ体調も悪くなり、1年次の終了時には別の科への転科を余儀なくされた。
そして専門学校で2度目の春がやってきた。

続く…


ペンネーム:Sora

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